手取川写真紀行 手取川
手取川は白山の峰々に源を発した全長72kmの石川県最大の川で、美川町の河口で日本海に注ぎます。 以下は上流 (白山山頂・柳谷) から下流 (河口・美川) までの手取川領域の風景写真である。 





手取川全図 (白山・柳谷〜河口・美川)

白峰町の手取川 白峰村
白山山頂図


手取川支流 宮谷川、柳谷川近辺図




手取川支流・柳谷川 (甚之助谷)


恐竜足跡化石の調査をした甚之助谷岩壁(赤囲い内に足跡化石がある)





恐竜足跡化石のある壁面

白山山頂を望む柳谷から甚之助谷に続く道




手取川支流・柳谷川 (柳谷)


恐竜足跡化石の調査をした柳谷岩壁、赤い斜面で中生代の化石を採取





恐竜足跡化石のある壁面

 下の化石は中生代白亜紀前期の石川県白山市の白山頂上近くの柳谷の手取層群赤岩層の地層で採集したテトリ シジミの化石で当時の白峰恐竜博物館の館長から頂いたものです。
 また下の複数の爪のような模様がある丸い石は採集地の河原から採取した物で、爪石(つめいし)と言い、淡水シジミ等の貝殻化石を含む岩石が河原を転がるうちに表が磨耗し、 貝原の断面が爪のようになった物で手取川の下流の河原でも見つかる。
   柳谷では哺乳類、カメ、恐竜の足跡化石がが見つかっている。


柳谷化石層から採取したテトリ シジミの密集化石      


柳谷川から採取した爪石(貝化石の断面)

百万貫岩 (白山支流・牛首川) 百万貫岩


百万貫岩が横たわる手取川の支流の宮谷川


昭和9年の大洪水の時に上流の宮谷川より流出した百万貫岩



桑島化石璧
桑島化石璧1 桑島化石璧2








石川県白山自然保護センター 白山自然誌30より


2023年4月28日 北國新聞 (by N さんより)


2023年4月28日 北國新聞 (by N さんより)



白峰集落の手取川
















白峰の町並み


とち餅を売る店がある道


白峰郵便局のある道

鳥越村の手取川 鳥越村


化石層下を流れる手取川


化石層で化石を探す


鳥越村上野の互層の化石層

鶴来町の手取川 鶴来町


手取渓谷





工学部創立記念日に大学同窓生と

獅子吼高原からの手取川


獅子吼高原から白山から流れる手取川


獅子吼高原から見た日本海に流れる手取川


獅子吼高原から見たハングライダーと手取川

白山比咩神社 白山比咩神社











白山比咩神社の鳥居の前で(父親と)


白山比咩神社の本殿の前で(両親と)

鶴来の街並み


古い街並み (左は汐井酒店、手前は小川幸三墳墓道の道之標)


汐井酒店の前で


故汐井昭二さんが開発した清酒「連邦白山」


古い家 (現 横町うらら館、観光総合案内所)


ふる里つるぎ 「横町うらら館」

天狗橋下の手取川の流れ




美川町の手取川 美川町
鮭が遡上する手取川


手取川に渡した捕獲柵と捕獲箱を見る人々


遡上する鮭を捕獲柵と捕獲箱




手取川河口


手取川河口でスベり採り (石川ルーツ交流館より)


美川河口でのスベり採り(石川文化会館より)


手取川の手漕ぎ船と旧美川大橋


日本海から手取川に入る漁船   


日本海に注ぐ手取川


手取川とに日本海と美川の町 (白山市発行 本吉港の歴史より)

美川町上空から見た手取川と白山


NHKテレビ「小さな旅」より



手取川河口と日本海と白山

「白山手取川」世界ジオパーク認定
2023年5月25日

北陸中日新聞 (by K さん)
白山比めい神社入口看板より

手取川雑記
木曾義仲軍が手取川を渡る : 源平時代
手取川と言う名前の由来にはいくつかあり、源平のむかし倶利伽羅の合戦を終えた木曾義仲の軍が急流を渡るために手を取り合って渡ったからとか、氾濫のたびに渡るのに手間どったからだとか言われています。

手取川の合戦 : 戦国時代 (1575年)
 天正三年(1575)五月の長篠の合戦で武田勝頼を破った織田信長は、北陸の一向一揆に対する政策に重点を移した。  このとき、すでに上杉謙信は、祖父以来の禁であった一向衆徒との提携を実現していた。信長との対決という点で、両者の利害が一致したからである。そのためこの時点で謙信と信長の同盟関係が崩れ対決することになった。この戦いが、手取川の合戦である。  天正五年閏七月、謙信は、畠山義綱の弟で上条上杉氏を相続していた義春を、能登の守護に擁立するという大義名分をもって、能登へ討ち入った。畠山氏の居城の七尾城は陥落寸前であったが、長続連・綱連父子は、弟の連龍を安土の信長のもとへ走らせ援軍を求めた。一方、謙信は、ひそかに遊佐続光に対し畠山氏の旧領を与えるという条件で誘降してクーデターを起こさせ、九月十五日、七尾城を陥落した。  この時まで、謙信と信長は表面的には平穏な関係を保っていたが、足利義昭から信長打倒の命が下った。一方、長氏から援軍要請をうけた信長は、八月八日に柴田勝家を総大将とする四万八千の大軍を派遣した。  九月十八日、謙信は信長の大遠征軍が手取川を越えたという情報に接し、九月二十三日には手取川まで軍を進めた。ここで両軍は対陣し決戦開始となるが、この時、総大将以下信長軍は、七尾城陥落の報を聞くと、戦意を喪失す、そのまま撤退を試みた。その矢先に、三万五千の上杉軍が攻めかかり、謙信は最初で最後の信長軍との戦いに勝利した。

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