長崎県、佐賀県の街歩き
長崎県の街歩き
長崎平和公園 (令和元年9月16日)
 2019 年(令和元年)9月14日から19日にかけて沖縄県名護市から埼玉県三郷市に引越した。本部港からフェリー(1泊2日で奄美諸島の各島に寄港する)で 鹿児島港に行き、持参した車で九州自動車道を鹿児島港から新門司港まで走った。
 新門司港発のフェリーに乗り遅れたため、2日間九州に足留めされ、その間に長崎の平和公園を見学した。
長崎平和公園を巡る 9月16日


" 長崎平和公園の地図
 


平和公園総合案内板

 
長崎原爆資料館を見学


長崎原爆資料館全景 (右の建物は平和会館)


長崎原爆資料館正面入口
 







   


原爆資料館展示室案内図


被爆した浦上天守堂の側壁(再現造型)


被爆した浦上天守堂の側壁(説明)


原爆資料館の一部 (被爆した長崎の街、放射線の被害他)
 
爆心地付近を見る


爆心地付近の下の川にかかる緑橋


下の川 (爆心地付近) の惨状写真


原爆落下中心地のモニュメントの前で

平和の泉を見る


平和の泉の前で


平和の泉の少女の手記の碑 噴水の中央遠くは平和祈念像


「平和の泉」の説明看板
 
平和祈念像を見る


平和祈念像への道


平和祈念像の前で1


和祈念像の前で2


平和祈念像の前で3


平和祈念像(正面より)


平和祈念像(右背面より)

長崎の鐘を見る


長崎の鐘
長崎の鐘 碑文
長崎の鐘よ鳴れ
長崎の鐘よ鳴れ
私達の肉親を奪った
私達のからだをむしばんだ
あの原爆が
いかに恐ろしいものであるか
あの戦争が
いかに愚かなものであるか
長崎の鐘よひびけ
長崎の鐘よひびけ
地球の果てから
果ての果てまでも
私達の願いをこめて
私達の祈りをこめて
昭和五十二年七月二十日
建立の経過
 原爆投下後、33回忌を迎えるにあたり、動員学徒、女子挺身隊、徴用工、 一般市民の原爆殉難者の冥福を祈り、あのようなむごい原子爆弾が、再び この地球で炸裂しないためにも、この鐘を鳴らし続けて恒久平和の確立を 世界の人々に訴えるため建立したものである。遺族、被爆者、およそ 21,000世帯の拠出金により建立された。


諫早湾水門 (令和元年9月17日)
 2019 年(令和元年)9月14日から19日にかけて沖縄県名護市から埼玉県三郷市に引越した。本部港からフェリー(1泊2日で奄美諸島の各島に寄港する)で 鹿児島港に行き、持参した車で九州自動車道を鹿児島港から新門司港まで走った。
 新門司港発のフェリーに乗り遅れたため、2日間九州に足留めされ、その間に長崎の平和公園を見学した翌日、新門司に移動する途中で、有明湾の諫早湾水門を見学した。
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諫早湾水門を見る 


諫早湾の堤防道路(両端に水門がある)と開拓地 


諫早湾の堤防道路 (両端に排水門がある) 遠くは雲仙普賢岳


北部排水門を背に


北部排水門と堤防道路


堤防道路 (雲仙平良シーライン)から雲仙普賢岳を望む


諫早湾開拓地と潮受道路と防水門

佐賀県の街歩き
有明海の干潟 :佐賀県 (令和元年9月14日、17日)
 2019 年(令和元年)9月14日から19日にかけて沖縄県名護市から埼玉県三郷市に引越した。本部港からフェリー(1泊2日で奄美諸島の各島に寄港する)で 鹿児島港に行き、持参した車で九州自動車道を鹿児島港から新門司港まで走った。
新門司港発のフェリーに乗り遅れたため、2日間九州に足留めされた。その間に長崎の平和公園を見学した翌日、新門司に向う途中で佐賀の有明海の干潟を見学した。
有明海の干潟を見る1:有明海北端部 佐賀県大川市海岸


有明海北端部 (佐賀県) 地図 


干潟を見る1


干潟を見る2


干潟を背に1


干潟を背に2


干潟のムツゴロウと蟹
有明海の干潟を見る2:有明海 佐賀県備前飯田海岸


備前飯田町(佐賀県)の地図


干潟の渡り鳥の群れ 遠くは雲仙普賢岳


干潟を背に1


干潟を背に2


干潟のムツゴロウ


マイカー プラツェと干潟

山 口 県、九州一周ドライブ  
 ミノルタに入社して堺市の浅香山寮に5年間いた。1972年にその時の同室であったK氏とK氏の故郷である佐賀県武雄市を訪れた。K氏の栗まで大阪の堺市から 国道2号線(山陽道)を走り、途中で山口県の秋吉台により、関門トンネルを渡り、宮崎県、鹿児島県、19大分県、長崎県、福岡県と九州を一周して、小倉からフェリーで大阪に帰った。
















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