島田清次郎 「地上」 雑記 島田清次郎

島清再発見 (北國新聞社記事「河口の町美川」より)





島田清次郎(しまだせいじろう)
島田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年(明治32年)2月26日 - 1930年(昭和5年)4月29日)は、日本の小説家。文壇で有名であった時代には「島清」という略称でも呼ばれた。
世の中への怒り

石川県石川郡美川町(現白山市)の生まれ。早くに父・常吉(回漕業)を海難事故で亡くし、母・みつの実家で育つ。母の実家は金沢市内の茶屋街(西廓)で貸座敷も営み、この環境が島田の文学と性格に影響を与えた。幼いころから芸妓街で嫌々客をとらされる芸者たちや貧乏ゆえに恋愛も許されない若者を身近に見ながら育ち、他方、政治家・官僚などがまともな政治を行わずに貧民が日本に多くいることへの憤りを募らせたことが、代表作となる『地上』の執筆動機となる。

「地上」発表 1916年8月27日、『萬朝報』懸賞小説に当選し、「加賀平野に芽ぐむもの」が掲載され賞金10円を得る(のちに「地上」第二部に援用)。痼疾の蓄膿症に悩みながらも自伝的長編を綴り、1917年(大正6年)5月、島田に理解を示していた暁烏敏の紹介で6月から11月にかけて『中外日報』に長編『死を超ゆる』の連載が実現(のちの『地上』第二部「地に叛くもの」)。このささやかな成功により、初めて地方の文学愛好の読者と文通を交わすことになり、さらなる文学的雄飛を促すようになっていった。つづく長編第二作(少なくとも千枚)を構想、文通仲間であった大熊信行の勧めに「死を超ゆる」の出版と上京を決意するがまもなく断念。石川県七尾町にあった鹿島郡役所書記補の仕事(月給5円)に就きながら、1918年(大正7年)7月26日、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」にインスパイアされ、自己の内面史を拡大視した長編「地上」を開稿(のちの第一部「地に潜むもの」)、1919年(大正8年)1月31日脱稿した。この間、連載小説(未完)が縁となって中外日報社主・真渓涙骨に迎えられ京都・清水坂に下宿、記者生活を送る(月給50円)。 1918年夏から書き始めた自伝的小説「地上」の原稿は中外日報主筆、伊藤証信(無我苑主宰)の推薦により生田長江に送られ、長江の絶賛と推薦のもと、1919(大正8)年4月上旬新人の書き下ろしをシリーズ的に出版していた新潮社の中村武羅夫(『新潮』担当)、社長佐藤義亮らによって出版が決定した。 1919年6月8日、フランス装の『地上 I 地に潜むもの』上梓(初版3000部、印税なしの契約)。この作品が、芥川龍之介が「僅かに行年二十歳の青年の作であることを思へば、少なくともその筆力の雄健な一点では、殆ど未来の大成を想見せしめるものがある。」と「大正八年度の文藝界(東京日日)」に誌し、菊池寛が後に「第一巻の如き凡庸者の手になるものではない」と評した、実質的な文壇デビューの作となった。 このころ、全国的に大流行したスペイン風邪に清次郎も罹り入院している。東京帝国大学を中心とする学生グループ新人会の新明正道は「島田清次郎論」を発表(『解放』第2巻 1号 1920)、吉野作造の娘、明子も好意的に接したという。その間も『地上』は版を重ね、徐々に三万部を越える。『地上』第二部「地に叛くもの」は、河上肇、福田徳三、厨川白村ら推薦の広告も手伝ってさらに部数を伸ばし、以降も、『早春: 白刃か、然らずんば涙をたゝえて微笑せよ(聚英閣)』『大望(たいもう)』『静かなる暴風(第三部)』『帝王者』『閃光雑記』『勝利を前にして』と、ひたすらに発する連作に、後年「輪転機から札束が湧き出た」と言われるほどであった。『地上』は江馬修の『受難者』、賀川豊彦の『死線を越えて』と並ぶ大正期の代表的なベストセラー(文芸書部門)となる。『地上』の成功に気をよくした島田は「精神界の帝王」と自らを恃み、朝鮮、中国、海外からの熱烈な読者も多くあった。Wikpedia
  


島田清次郎
小説家。石川県の生まれ。旧制金沢二中、金沢商業学校中退。放浪生活のなかから小説『地を超ゆる』(1917)を執筆、歌人で評論家の暁烏敏(あけがらすはや)の紹介で公表され、京都『中外日報』記者となる。1918年(大正7)『地上』第一部を脱稿、翌年生田長江(いくたちょうこう)の推挙で新潮社から刊行された。天才肌の主人公が社会に反抗し、恋愛する姿を描き、理想主義的な青年の共感を得て、異常な売れ行きを示す。しかし、続刊された第二部、第三部では概念的になり、未完に終わる。22年欧州旅行後は奇矯な言動が目だち、不遇のうちに精神科病院で没した。ほかに短編集『大望』(1920)、評論集『勝利を前にして』(1922)がある。 [山田俊治]『地上??地に潜むもの』(1973・季節社)』
  






地上 島田清次郎
 島田清次郎という作家をご存知だろうか。  たぶん、知らない人の方が多いと思う。大正時代のベストセラー作家なのだが、今ではほどんど忘れられた作家になっているからだ。  知っているという人は、たぶん森田信吾のマンガ『栄光なき天才たち』(小学館)か杉森久英の書いた伝記小説『天才と狂人の間』(河出文庫)を読んだか、本木雅弘主演でNHKで放送されたドラマ『涙たたえて微笑せよ』を見たのだと思う。今では、この3つの作品くらいしか、島田清次郎について語ったものはないし、彼の作品もすべて絶版で入手困難だ。  どれも読んだことのない方は、島田清次郎の生涯を紹介したこのページを読んでください。なかなか劇的な人生ではないか。  私は「栄光なき天才たち」で彼のことを読んでから、ずっと『地上』が読みたいと思っていたのだがどこにも見つからず、最近やっと某所の古本屋で見つけたのだ。といってももちろん大正の初刊本ではなく昭和32年に映画化(川口浩主演)されたときの復刊本。値千円也。  売れていることを鼻にかけたり、大言壮語をかましたりするあたり、私は「島田清次郎=大正の梅○○○」なんじゃないかと思っていたのだが(笑)、実際読んでみるとなんだか作風は「大正の江川達也」という感じである。  別のページで、『地上』第一部のあらすじを紹介している。長くてすまん。最後まで紹介しているので、これから読むという人は読まないように。  さすがベストセラーになるだけあって、ドラマチックで読ませる展開である。今読むと、古めかしくて微笑ましい学園恋愛ものパートと、シリアスで悲惨な遊廓パートのギャップが激しいように見えるが、当時の現実もそんなものだったのかもしれない。  ただ主人公が「えらくなる」というばっかりで何もしないあたりとか、伏線をたくさん張っておきながら全然回収されないあたりに不満が残る。最初、私はシリーズの第一部なんでこんななのかと思ったのだが、解説によると、第二部はまったく別の主人公の話になってしまうし、第三部は再び第一部の主人公が登場するものの、別に政治家にもなっていないし、実業家天野とも対決しないらしい。ヒロインとも再開するがまたすぐ離れていってしまうそうだ。  自分の半生を脚色した作品だけに、作者本人が天野にあたる人物も倒さず、和歌子も手に入れていない以上、カタルシスのある続編は書けなかったようなのだが、これでは読者は納得するまい。  しかし、今読んでも決してつまらない作品ではない。まったく復刊されていないのが不思議なくらいである。  作者の生涯もからめて、江川達也の絵でマンガ化してみたらおもしろいと思うのだが。ちょうどGOLDEN BOYも中絶してしまったところだしね。  なお、Infoseekで検索してみたところ、ただひとつ、島田清次郎のファンページが見つかった。工事中のところも多いけれど、作品リストや、記念館探訪記などが読める、たぶんウェブ上唯一の島田清次郎ページとして貴重である。 新潮社(1957年10月26日発行)
  

島田清次郎メモ
誕生

死没


墓地
 
職業

代表作

デビュー作

影響を受けたもの

最終学歴
石川県石川郡美川町(現白山市)

1930年4月29日(31歳没)
東京府北豊島郡西巣鴨町庚申塚 (現東京都豊島区巣鴨)

美川墓地公苑(石川県白山市)

小説家

『地上』

『死を超ゆる』

ロマン・ロラン

野町小学校尋常科卒業
金沢第二中学校中退、明治学院普通部中退、金沢商業学校本科中退
出典 : ウィキペディア(Wikipedia)

島田清次郎と美川


出典 : 通信『アジアと小松』






島田清次郎の墓 (美川町)

島田清次郎「地上」の劇画の抜粋
(森田慎吾画の『栄光なき天才たち』より)








栄光なき天才たちとは
『栄光なき天才たち』(えいこうなきてんさいたち)は、作:伊藤智義(一部)、画:森田信吾による日本の漫画である。『週刊ヤングジャンプ』(集英社)にて、1986年23号から1992年24号まで連載された、単行本は、集英社の「ヤングジャンプ・コミックス」にて、第1巻から第17巻まで発行されている。

出典 : ウィキペディア(Wikipedia)

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