宮澤賢治記念館 化石をデザインした宮澤賢治全集 |
賢治が採集した化石 |
宮澤賢治について Wikipediaより |
No | 作品名 | 発表年 | 分 野 | 備 考 .、内 容 | |
1 | ○ |
イギリス海岸
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1922年?
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随筆 |
花巻農学校の教師の時、書く
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2 | ○ |
雪渡り
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1922年1月
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童話 |
雑誌『愛国婦人』に発表、生涯唯一の5円の原稿料を得る。
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3 | ○ |
やまなし
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1923年4月
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童話 |
岩手毎日新聞に掲載
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4 | ○ |
氷河鼠の毛皮
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1923年
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童話 |
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5 | ○ |
シグナルとシグナレス
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1923年5月
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童話 |
岩手毎日新聞に掲載
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6 | ○ |
春と修羅
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1924年4月
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詩集 |
自費出版
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7 | ○ |
注文の多い料理店
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1924年12月
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童話集 |
△同一本に掲載
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8 | ○ |
狼森と笊森、盗森
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1924年12月
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童話 |
△
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9 | ○ |
どんぐりと山猫
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1924年12月
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童話 |
△
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10 | ○ |
烏の北斗七星
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1924年12月
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童話 |
△
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11 | ○ |
水仙月の四日
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1924年12月
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童話 |
△
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12 | ○ |
山男の四月
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1924年12月
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童話 |
△
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13 | ○ |
かしわばやしの夜
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1924年12月
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童話 |
△
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14 | ○ |
月夜のでんしんばしら
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1924年12月
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童話 |
△
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15 | ○ |
鹿踊りのはじまり
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1924年12月
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童話 |
△
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16 | ○ |
蛙のゴム靴
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1924年12月
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童話 |
△
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17 | ○ |
蜘蛛となめくぢと狸
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1924年12月
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童話 |
△
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18 | ○ |
オツベルと象
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1926年1月
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童話 |
雑誌『月曜』に掲載
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19 | ○ |
ざしき童子のはなし
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1926年2月
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童話 |
雑誌『月曜』に掲載
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20 | ○ |
猫の事務所
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1926年3月
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童話 |
雑誌『月曜』に掲載
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21 | ○ |
中尊寺
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文語詩 |
1934年、中尊寺の詩碑に刻印
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22 | ○ |
北盛将軍と三人の兄弟の医者
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1931年7月
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短編小説(童話) |
児童文学に発表
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23 | ○ |
雨ニモマケズ
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1931年11月
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詩 |
宮澤賢治の手帳にかかれていた遺作メモ
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24 | ○ |
星めぐりの歌
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作詞、作曲の歌 |
『双子の星』『銀河鉄道の夜』に登場
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25 | ○ |
グスコーブドリの伝記
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1932年4月
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童話 |
児童文学に発表
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26 | ○ |
銀河鉄道の夜
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1934年
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童話 |
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27 | ○ |
風の又三郎
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1934年
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短編小説 |
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28 | ○ |
ポラーノの広場
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1934年
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短編小説 |
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29 | ○ |
貝の火
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1934年
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童話 |
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30 | ○ |
よだかの星
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1934年
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短編小説(童話) |
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31 | ○ |
カイロ団長
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1934年
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短編小説(寓話) |
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32 | ○ |
フランドン農学校の豚
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1934年
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童話 |
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33 | ○ |
ツェねずみ
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1934年
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童話 |
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34 | ○ |
クねずみ
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1934年
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童話 |
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35 | ○ |
鳥箱先生とフウねずみ
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1934年
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童話 |
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36 | ○ |
雁の童子
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1934年
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童話 |
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37 | ○ |
ビジテリアン大祭
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1934年
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童話 |
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38 | ○ |
土神と狐
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1934年
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童話 |
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39 | ○ |
楢ノ木大学士の野宿
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1934年
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童話 |
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40 | ○ |
マリヴロンと少女
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1934年
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童話 |
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41 | ○ |
タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった
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1934年
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童話 |
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42 | ○ |
虔十公園林
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1934年
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童話 |
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43 | ○ |
なめとこ山の熊
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1934年7月
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童話 |
現代童話集に掲載
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44 | ○ |
セロ弾きのゴーシュ
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1934年
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童話 |
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45 | ○ |
さるのこしかけ
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1934年
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童話 |
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46 | ○ |
祭の晩
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1934年
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童話 |
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47 | ○ |
税務署長の冒険
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1934年
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童話 |
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48 | ○ |
いちょうの実
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童話 |
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49 | ○ |
双子の星
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童話 |
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50 | ○ |
青びかる天個弧のはてに
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詩 |
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51 | ○ |
青柳教諭を送る
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詩 |
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1896年(明治29年) 8月27日 - 岩手県稗貫郡里川口村川口町303番地(後の花巻町大字里川口第一二地割字川口町 295番地、現・花巻市豊沢町4丁目11番地)にて、父政次郎、母イチの長男として生まれる。 1903年(明治36年) 4月 - 花巻川口尋常高等小学校に入学。 1909年(明治42年) 4月 - 岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。 1914年(大正3年) 3月 - 盛岡中学校卒業。 4月 - 肥厚性鼻炎で岩手病院で入院・手術。手術後も発熱が続き、5月末まで入院。 退院後、家の手伝いをしていたが、進学を許され、受験勉強に励む。 1915年(大正4年) 4月 - 盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で進学、寄宿舎「自啓寮」に入寮。 1916年(大正5年) 3月 - 農学第2部(農芸化学専攻)でただ一人の特待生に選ばれ、授業料免除。 1917年(大正6年) 7月 - 同じ学校の保阪嘉内らと同人誌『アザリア』創刊。短歌などを発表。 1918年(大正7年) 3月13日 - 保阪嘉内が除籍処分。 3月15日 - 盛岡高等農林学校を卒業。研究生として引き続き在籍、稗貫郡の土性調査を行う。 4月28日 - 徴兵検査で第二乙種合格、兵役免除。 6月30日 - 肋膜炎と診断され、土性調査終了次第、退学を希望。 12月26日 - 妹のトシが肺炎で東京の病院に入院、母と上京して看病する。 1919年(大正8年) 萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会う。 東京で人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。 3月3日 - トシ退院、岩手に戻る。家業を手伝う。 1920年(大正9年) 5月20日 - 研究生を卒業。 10月 - 国柱会に入信。父に改宗をせまる。 1921年(大正10年) 1月23日 - 上京、国柱会本部を訪問。本郷菊坂町に下宿、働きながら多くの童話を執筆。 8月 - トシ病気のため帰郷。 12月3日 - 稗貫農学校(後の花巻農学校)教師となる。 1922年(大正11年) 1月 - 雑誌『愛国婦人』12月号、1月号に『雪渡り』発表。 11月27日 - トシ、病死。 1924年(大正13年) 4月20日 - 詩集『春と修羅』を自費出版。 12月1日 - 童話集『注文の多い料理店』を刊行。 1925年(大正14年) 7月 - 詩人の草野心平の同人誌『銅鑼』に参加。作品を発表。 1926年(大正15年) 3月31日 - 花巻農学校を依願退職。 4月 - 花巻町下根子桜の別宅にて独居自炊。私塾「羅須地人協会」を設立。 12月2日 - 上京。セロ、タイプライター、オルガン、エスペラント語を習う。 高村光太郎宅を訪問。年末に帰郷。 1927年(昭和2年) 2月1日 - 『岩手日報』夕刊で賢治の活動が紹介されるが、社会主義教育と疑われ警察の 聴取を受ける。 以後、羅須地人協会の集会は不定期になった。 1928年(昭和3年) 6月 - 農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。 8月10日 - 過労で倒れ、両側肺湿潤と診断される。実家に戻り療養。 1930年(昭和5年) 5月 - 東北砕石工場主の鈴木東蔵の訪問を受ける。 1931年(昭和6年) 2月21日 - 体調回復し、東北砕石工場技師となる。石灰肥料の宣伝販売を担当。 9月20日 - 商品売り込みのため上京中に発熱で倒れ、旅館で家族に遺書を書く。 9月28日 - 花巻に帰り、再び療養生活を送る。 11月 - 手帳に『雨ニモマケズ』を書く。 1932年(昭和7年) 3月 - 「児童文学」第二冊に『グスコーブドリの伝記』発表。 1933年(昭和8年) 9月21日 - 急性肺炎のため死去(享年37)。戒名「真金院三不日賢善男子」。 |
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ_ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ 南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来 南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼仏 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 |
<春と修羅 序> わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといつしよに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です (ひかりはたもち その電燈は失はれ) これらは二十二箇月の 過去とかんずる方角から 紙と鉱質インクをつらね (すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの) ここまでたもちつゞけられた かげとひかりのひとくさりづつ そのとほりの心象スケッチです <春と修羅 (本文>
心象のはいいろはがねから あけびのつるはくもにからまり のばらのやぶや腐植の湿地 いちめんのいちめんの詔曲模様 (正午の管楽よりもしげく 琥珀のかけらがそそぐとき) いかりのにがさまた青さ 四月の気層のひかりの底を 唾し はぎしりゆききする おれはひとりの修羅なのだ <春と修羅2集 (告別>
云わなかったが おれは四月はもう学校に居ないのだ 恐らく暗くけわしいみちをあるくだろう そのあとでおまえのいまのちからがにぶり きれいな音の正しい調子とその明るさを失って ふたたび回復できないならば おれはおまえをもう見ない なぜならおれは すこしぐらいの仕事ができて そいつに腰をかけてるような そんな多数をいちばんいやにおもうのだ もしもおまえが よくきいてくれ ひとりのやさしい娘をおもうようになるそのとき おまえに無数の影と光りの像があらわれる お前はそれを音にするのだ みんなが町で暮したり 一日あそんでゐるときに おまへはひとりであの石原の草を刈る そのさびしさでおまへは音をつくるのだ 多くの侮辱や窮乏の それらを噛んで歌ふのだ もしも楽器がなかったら いゝかおまへはおれの弟子なのだ ちからのかぎり そらいっぱいの 光でできたパイプオルガンを弾くがい |
あかいめだまの さそり ひろげた鷲の つばさ あをいめだまの 小いぬ、 ひかりのへびの とぐろ。 オリオンは高く うたひ つゆとしもとを おとす、 アンドロメダの くもは さかなのくちの かたち。 大ぐまのあしを きたに 五つのばした ところ。 小熊のひたいの うへは そらのめぐりの めあて |
「双子の星」
「銀河鉄道の夜」に 『星めぐりの歌』が記載されている。 |
<中尊寺1> 七重の舎利の小塔に 蓋なすや緑の燐光 大盗は銀のかたびら おろがむとまづ膝だてば 赭のまなこたゞつぶらにて もろの肱映えかゞやけり 手触れ得ね舎利の宝塔 大盗は礼して没(き)ゆる <中尊寺2> 白きそらいと近くして みねの方鐘さらに鳴り 青葉もて埋もる堂の ひそけくも暮れにまぢかし 僧ひとり縁にうちゐて ふくれたるうなじめぐらし 義経の彩ある像を ゆびさしてそらごとを云ふ |
中尊寺にある歌碑 |
夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、 仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処ところがありました。 それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上きたかみ川の西岸でした。東の仙人せんにん峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を 横截よこぎって来る冷たい猿さるヶ石いし川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。 イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずゐぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはづれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。 殊にその泥岩層は、川の水の増すたんび、奇麗に洗はれるものですから、何とも云いへず青白くさっぱりしてゐました。 所々には、水増しの時できた小さな壺穴つぼあなの痕あとや、またそれがいくつも続いた浅い溝みぞ、それから亜炭のかけらだの、枯れた蘆あしきれだのが、一列に ならんでゐて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。 日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひゞ割れもあり、大きな帽子を冠かむってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、 全くもうイギリスあたりの白堊はくあの海岸を歩いてゐるやうな気がするのでした。 町の小学校でも石の巻の近くの海岸に十五日も生徒を連れて行きましたし、隣りの女学校でも臨海学校をはじめてゐました。 けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。ですから、生れるから北上の河谷の上流の方にばかり居た私たちにとっては、どうしてもその白い泥岩層を イギリス海岸と呼びたかったのです。 それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。なぜならそこは第三紀と呼ばれる地質時代の終り頃ころ、たしかにたびたび海の渚なぎさだった からでした。その証拠には、第一にその泥岩は、東の北上山地のへりから、西の中央分水嶺ぶんすゐれいの麓ふもとまで、一枚の板のやうになってずうっとひろがって居ました。 たゞその大部分がその上に積った洪積の赤砂利や※ローム[#「土+母」、102-13]、それから沖積の砂や粘土や何かに被おほはれて見えないだけのはなしでした。 それはあちこちの川の岸や崖がけの脚には、きっとこの泥岩が顔を出してゐるのでもわかりましたし、又所々で掘り抜き井戸を穿うがったりしますと、ぢきこの泥岩層に ぶっつかるのでもしれました。 第二に、この泥岩は、粘土と火山灰とまじったもので、しかもその大部分は静かな水の中で沈んだものなことは明らかでした。たとへばその岩には沈んでできた縞しまの あること、木の枝や茎のかけらの埋もれてゐること、ところどころにいろいろな沼地に生える植物が、もうよほど炭化してはさまってゐること、また山の近くには細かい 砂利のあること、殊に北上山地のヘりには所々この泥岩層の間に砂丘の痕あとらしいものがはさまってゐることなどでした。さうして見ると、いま北上の平原になってゐる 所は、一度は細長い幅三里ばかりの大きなたまり水だったのです。 ところが、第三に、そのたまり水が塩からかった証拠もあったのです。それはやはり北上山地のへりの赤砂利から、牡蠣かきや何か、半鹹はんかんのところにでなければ 住まない介殻かひがらの化石が出ました。 さうして見ますと、第三紀の終り頃、それは或あるいは今から五六十万年或は百万年を数へるかも知れません、その頃今の北上の平原にあたる処は、細長い入海か鹹湖で、 その水は割合浅く、何万年の永い間には処々水面から顔を出したり又引っ込んだり、火山灰や粘土が上に積ったり又それが削られたりしてゐたのです。その粘土は西と東 の山地から、川が運んで流し込んだのでした。その火山灰は西の二列か三列の石英粗面岩の火山が、やっとしづまった処ではありましたが、やっぱり時々噴火をやったり 爆発をしたりしてゐましたので、そこから降って来たのでした。 その頃世界には人はまだ居なかったのです。殊に日本はごくごくこの間、三四千年前までは、全く人が居なかったと云ひますから、もちろん誰たれもそれを見てはゐな かったでせう。その誰も見てゐない昔の空がやっぱり繰り返し繰り返し曇ったり又晴れたり、海の一とこがだんだん浅くなってたうとう水の上に顔を出し、そこに草や木 が茂り、ことにも胡桃くるみの木が葉をひらひらさせ、ひのきやいちゐがまっ黒にしげり、しげったかと思ふと忽たちまち西の方の火山が赤黒い舌を吐き、軽石の火山礫く ゎざんれきは空もまっくらになるほど降って来て、木は圧おし潰つぶされ、埋められ、まもなく又水が被かぶさって粘土がその上につもり、全くまっくらな処に埋められた のでせう。考へても変な気がします。そんなことほんたうだらうかとしか思はれません。ところがどうも仕方ないことは、私たちのイギリス海岸では、川の水からよほどは なれた処に、半分石炭に変った大きな木の根株が、その根を泥岩の中に張り、そのみきと枝を軽石の火山礫層に圧し潰されて、ぞろっとならんでゐました。尤もっともそれ は間もなく日光にあたってぼろぼろに裂け、度々の出水に次から次と削られては行きましたが、新らしいものも又出て来ました。そしてその根株のまはりから、ある時 私たちは四十近くの半分炭化したくるみの実を拾ひました。それは長さが二寸位、幅が一寸ぐらゐ、非常に細長く尖とがった形でしたので、はじめは私どもは上の重い地層 に押し潰されたのだらうとも思ひましたが、縦に埋まってゐるのもありましたし、やっぱりはじめからそんな形だとしか思はれませんでした。 それからはんの木の実も見附かりました。小さな草の実もたくさん出て来ました。 この百万年昔の海の渚なぎさに、今日は北上川が流れてゐます。昔、巨おほきな波をあげたり、じっと寂しづまったり、誰たれも誰も見てゐない所でいろいろに変った その巨きな鹹水かんすゐの継承者は、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴた昔の渚をうちながら夜昼南へ流れるのです。 こゝを海岸と名をつけたってどうしていけないといはれませうか。 それにも一つこゝを海岸と考へていゝわけは、ごくわづかですけれども、川の水が丁度大きな湖の岸のやうに、寄せたり退ひいたりしたのです。それは向ふ側から入って 来る猿さるヶ石いし川とこちらの水がぶっつかるためにできるのか、それとも少し上流がかなりけはしい瀬になってそれがこの泥岩層の岸にぶっつかって戻るためにできる のか、それとも全くほかの原因によるのでせうか、とにかく日によって水が潮のやうに差し退きするときがあるのです。 さうです。丁度一学期の試験が済んでその採点も終りあとは三十一日に成績を発表して通信簿を渡すだけ、私の方から云へばまあさうです、農場の仕事だってその日の 午前で麦の運搬も終り、まあ一段落といふそのひるすぎでした。私たちは今年三度目、イギリス海岸へ行きました。瀬川の鉄橋を渡り牛蒡ごぼうや甘藍キャベジが青白い 葉の裏をひるがへす畑の間の細い道を通りました。 みちにはすゞめのかたびらが穂を出していっぱいにかぶさってゐました。私たちはそこから製板所の構内に入りました。製板所の構内だといふことはもくもくした新らし い鋸屑おがくづが敷かれ、鋸のこぎりの音が気まぐれにそこを飛んでゐたのでわかりました。鋸屑には日が照って恰度ちゃうど砂のやうでした。砂の向ふの青い水と救助 区域の赤い旗と、向ふのブリキ色の雲とを見たとき、いきなり私どもはスヰーデンの峡湾にでも来たやうな気がしてどきっとしました。たしかにみんなさう云ふ気もちら しかったのです。製板の小屋の中は藍あゐいろの影になり、白く光る円鋸まるのこが四五梃ちゃう壁にならべられ、その一梃は軸にとりつけられて幽霊のやうにまはって ゐました。 私たちはその横を通って川の岸まで行ったのです。草の生えた石垣いしがきの下、さっきの救助区域の赤い旗の下には筏いかだもちやうど来てゐました。花城くゎじゃう や花巻の生徒がたくさん泳いで居をりました。けれども元来私どもはイギリス海岸に行かうと思ったのでしたからだまってそこを通りすぎました。そしてそこはもうイギリ ス海岸の南のはじなのでした。私たちでなくたって、折角川の岸までやって来ながらその気持ちのいゝ所に行かない人はありません。町の雑貨商店や金物店の息子たち 、夏やすみで帰ったあちこちの中等学校の生徒、それからひるやすみの製板の人たちなどが、或あるいは裸になって二人三人づつそのまっ白な岩に座ったり、また網シャ ツやゆるい青の半ずぼんをはいたり、青白い大きな麦稈むぎわら帽をかぶったりして歩いてゐるのを見て行くのは、ほんたうにいゝ気持でした。 そしてその人たちが、みな私どもの方を見てすこしわらってゐるのです。殊に一番いゝことは、最上等の外国犬が、向ふから黒い影法師と一緒に、一目散に走って来た ことでした。実にそれはロバートとでも名の附きさうなもぢゃもぢゃした大きな犬でした。 「あゝ、いゝな。」私どもは一度に叫びました。誰たれだって夏海岸へ遊びに行きたいと思はない人があるでせうか。殊にも行けたら、そしてさらはれて紡績工場など へ売られてあんまりひどい目にあはないなら、フランスかイギリスか、さう云ふ遠い所へ行きたいと誰も思ふのです。 私たちは忙しく靴くつやずぼんを脱ぎ、その冷たい少し濁った水へ次から次と飛び込みました。全くその水の濁りやうと来たら素敵に高尚かうしゃうなもんでした。 その水へ半分顔を浸して泳ぎながら横目で海岸の方を見ますと、泥岩の向ふのはづれは高い草の崖がけになって木もゆれ雲もまっ白に光りました。 それから私たちは泥岩の出張った処に取りついてだんだん上りました。一人の生徒はスヰミングワルツの口笛を吹きました。私たちのなかでは、ほんたうのオーケス トラを、見たものも聴いたことのあるものも少なかったのですから、もちろんそれは町の洋品屋の蓄音器から来たのですけれども、恰度ちゃうどそのやうに冷い水は 流れたのです。 私たちは泥岩層の上をあちこちあるきました。所々に壺穴つぼあなの痕あとがあって、その中には小さな円い砂利が入ってゐました。 「この砂利がこの壺穴を穿ほるのです。水がこの上を流れるでせう、石が水の底でザラザラ動くでせう。まはったりもするでせう、だんだん岩が穿れて行くのです。 また、赤い酸化鉄の沈んだ岩の裂け目に沿って、層がずうっと溝みぞになって窪くぼんだところもありました。それは沢山の壺穴を連結してちゃうどへうたんをつないだ やうに見えました。 「斯かう云ふ溝は水の出るたんびにだんだん深くなるばかりです。なぜなら流されて行く砂利はあまりこの高い所を通りません。溝の中ばかりころんで行きます。溝は 深くなる一方でせう。水の中をごらんなさい。岩がたくさん縦の棒のやうになってゐます。みんなこれです。」 「あゝ、騎兵だ、騎兵だ。」誰たれかが南を向いて叫びました。 下流のまっ青な水の上に、朝日橋がくっきり黒く一列浮び、そのらんかんの間を白い上着を着た騎兵たちがぞろっと並んで行きました。馬の足なみがかげろふのやうに ちらちらちらちら光りました。それは一中隊ぐらゐで、鉄橋の上を行く汽車よりはもっとゆるく、小学校の遠足の列よりはも少し早く、たぶんは中隊長らしい人を先頭に だんだん橋を渡って行きました。 「どごさ行ぐのだべ。」 「水馬演習でせう。白い上着を着てゐるし、きっと裸馬だらう。」 「こっちさ来るどいゝな。」 「来るよ、きっと。大てい向ふ岸のあの草の中から出て来ます。兵隊だって誰だって気持ちのいゝ所へは来たいんだ。」 騎兵はだんだん橋を渡り、最後の一人がぽろっと光って、それからみんな見えなくなりました。と思ふと、またこっちの袂たもとから一人がだくでかけて行きました。 私たちはだまってそれを見送りました。 けれども、全く見えなくなると、そのこともだんだん忘れるものです。私たちは又冷たい水に飛び込んで、小さな湾になった所を泳ぎまはったり、岩の上を走ったり しました。 誰かが、岩の中に埋もれた小さな植物の根のまはりに、水酸化鉄の茶いろな環わが、何重もめぐってゐるのを見附けました。それははじめからあちこち沢山あったのです。 「どうしてこの環、出来だのす。」 「この出来かたはむづかしいのです。膠質体かうしつたいのことをも少し詳しくやってからでなければわかりません。けれどもとにかくこれは電気の作用です。この環は リーゼガングの環と云ひます。実験室でもこさへられます。あとで土壌の方でも説明します。腐植質磐層ばんそうといふものも似たやうなわけでできるのですから。」 私は毎日の実習で疲れてゐましたので、長い説明が面倒くさくて斯かう答へました。 それからしばらくたって、ふと私は川の向ふ岸を見ました。せいの高い二本のでんしんばしらが、互によりかゝるやうにして一本の腕木でつらねられてありました。 そのすぐ下の青い草の崖がけの上に、まさしく一人のカアキイ色の将校と大きな茶いろの馬の頭とが出て来ました。 「来た、来た、たうとうやって来た。」みんなは高く叫びました。 「水馬演習だ。向ふ側へ行かう。」斯う云ひながら、そのまっ白なイギリス海岸を上流にのぼり、そこから向ふ側へ泳いで行く人もたくさんありました。 兵隊は一列になって、崖をなゝめに下り、中にはさきに黒い鉤かぎのついた長い竿さをを持った人もありました。 間もなく、みんなは向ふ側の草の生えた河原に下り、六列ばかりに横にならんで馬から下り、将校の訓示を聞いてゐました。それが中々永かったのでこっち側に居る 私たちは実際あきてしまひました。いつになったら兵隊たちがみな馬のたてがみに取りついて、泳いでこっちへ来るのやらすっかり待ちあぐねてしまひました。 さっき川を越えて見に行った人たちも、浅瀬に立って将校の訓示を聞いてゐましたが、それもどうも面白くて聞いてゐるやうにも見え、またつまらなさうにも見える のでした。うるんだ夏の雲の下です。 そのうちたうとう二隻の舟が川下からやって来て、川のまん中にとまりました。兵隊たちはいちばんはじの列から馬をひいてだんだん川へ入りました。馬の蹄ひづめの 底の砂利をふむ音と水のばちゃばちゃはねる音とが遠くの遠くの夢の中からでも来るやうに、こっち岸の水の音を越えてやって来ました。私たちはいまにだんだん深い処 へさへ来れば、兵隊たちはたてがみにとりついて泳ぎ出すだらうと思って待ってゐました。ところが先頭の兵隊さんは舟のところまでやって来ると、ぐるっとまはって、 また向ふへ戻りました。みんなもそれに続きましたので列は一つの環わになりました。 「なんだ、今日はたゞ馬を水にならすためだ。」私たちはなんだかつまらないやうにも思ひましたが、亦また、あんな浅い処までしか馬を入れさせずそれに舟を二隻 も用意したのを見てどこか大へん力強い感じもしました。それから私たちは養蚕の用もありましたので急いで学校に帰りました。 その次には私たちはたゞ五人で行きました。 はじめはこの前の湾のところだけ泳いでゐましたがそのうちだんだん川にもなれて来て、ずうっと上流の波の荒い瀬のところから海岸のいちばん南のいかだのあるあたり へまでも行きました。そして、疲れて、おまけに少し寒くなりましたので、海岸の西の堺さかひのあの古い根株やその上につもった軽石の火山礫層くゎざんれきそうの処 に行きました。 その日私たちは完全なくるみの実も二つ見附けたのです。火山礫の層の上には前の水増しの時の水が、沼のやうになって処々溜たまってゐました。私たちはその溜り水 から堰せきをこしらへて滝にしたり発電処のまねをこしらへたり、こゝはオーバアフロウだの何の永いこと遊びました。 その時、あの下流の赤い旗の立ってゐるところに、いつも腕に赤いきれを巻きつけて、はだかに半纒はんてんだけ一枚着てみんなの泳ぐのを見てゐる三十ばかりの男が、 一梃ちゃうの鉄梃かなてこをもって下流の方から溯さかのぼって来るのを見ました。その人は、町から、水泳で子供らの溺おぼれるのを助けるために雇はれて来てゐるの でしたが、何ぶんひまに見えたのです。今日だって実際ひまなもんだから、あゝやって用もない鉄梃なんかかついで、動かさなくてもいゝ途方もない大きな石を動かさう として見たり、丁度私どもが遊びにしてゐる発電所のまねなどを、鉄梃まで使って本当にごつごつ岩を掘って、浮岩の層のたまり水を干さうとしたりしてゐるのだと思ふ と、私どもは実は少しをかしくなったのでした。 ですからわざと真面目まじめな顔をして、 「こゝの水少し干した方いゝな、鉄梃を貸しませんか。」と云ふものもありました。 するとその男は鉄梃かなてこでとんとんあちこち突いて見てから、 「こゝら、岩も柔いやうだな。」と云ひながらすなほに私たちに貸し、自分は又上流の波の荒いところに集ってゐる子供らの方へ行きました。すると子供らは、その荒い ブリキ色の波のこっち側で、手をあげたり脚を俥屋くるまやさんのやうにしたり、みんなちりぢりに遁にげるのでした。私どもはははあ、あの男はやっぱりどこか足りな いな、だから子供らが鬼のやうにこはがってゐるのだと思って遠くから笑って見てゐました。 さてその次の日も私たちはイギリス海岸に行きました。 その日は、もう私たちはすっかり川の心持ちになれたつもりで、どんどん上流の瀬の荒い処から飛び込み、すっかり疲れるまで下流の方へ泳ぎました。下流であがって は又野蛮人のやうにその白い岩の上を走って来て上流の瀬にとびこみました。それでもすっかり疲れてしまふと、又昨日の軽石層のたまり水の処に行きました。救助係は その日はもうちゃんとそこに来てゐたのです。腕には赤い巾きれを巻き鉄梃も持ってゐました。 「お暑うござんす。」私が挨拶あいさつしましたらその人は少しきまり悪さうに笑って、 「なあに、おうちの生徒さんぐらゐ大きな方ならあぶないこともないのですが一寸ちょっと来て見た所です。」と云ふのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げる ものはほんたうに少かったのです。もちろん何かの張合で誰たれかが溺おぼれさうになったとき間違ひなくそれを救へるといふ位のものは一人もありませんでした。だん だん談はなして見ると、この人はずゐぶんよく私たちを考へてゐて呉くれたのです。救助区域はずうっと下流の筏いかだのところなのですが、私たちがこの気もちよい イギリス海岸に来るのを止めるわけにも行かず、時々別の用のあるふりをして来て見てゐて呉れたのです。もっと談してゐるうちに私はすっかりきまり悪くなってしま ひました。なぜなら誰でも自分だけは賢こく、人のしてゐることは馬鹿ばかげて見えるものですが、その日そのイギリス海岸で、私はつくづくそんな考のいけないこと を感じました。からだを刺されるやうにさへ思ひました。はだかになって、生徒といっしょに白い岩の上に立ってゐましたが、まるで太陽の白い光に責められるやうに 思ひました。全くこの人は、救助区域があんまり下流の方で、とてもこのイギリス海岸まで手が及ばず、それにも係はらず私たちをはじめみんなこっちへも来るし、 殊に小さな子供らまでが、何べん叱しかられてもあのあぶない瀬の処に行ってゐて、この人の形を遠くから見ると、遁げてどての蔭や沢のはんのきのうしろにかくれる ものですから、この人は町へ行って、もう一人、人を雇ふかさうでなかったら救助の浮標ブイを浮べて貰もらひたいと話してゐるといふのです。 さうして見ると、昨日あの大きな石を用もないのに動かさうとしたのもその浮標の重りに使ふ心組からだったのです。おまけにあの瀬の処では、早くにも溺れた人も あり、下流の救助区域でさへ、今年になってから二人も救ったといふのです。いくら昨日までよく泳げる人でも、今日のからだ加減では、いつ水の中で動けないやうに なるかわからないといふのです。何気なく笑って、その人と談はなしてはゐましたが、私はひとりで烈はげしく烈しく私の軽率を責めました。実は私はその日までもし 溺おぼれる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと 思ってゐただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。そして私は、それが悪いことだとは決して思ひませんでした。 さてその人と私らは別れましたけれども、今度はもう要心して、あの十間ばかりの湾の中でしか泳ぎませんでした。 その時、海岸のいちばん北のはじまで溯さかのぼって行った一人が、まっすぐに私たちの方へ走って戻って来ました。 「先生、岩に何かの足痕あしあとあらんす。」 私はすぐ壺穴つぼあなの小さいのだらうと思ひました。第三紀の泥岩で、どうせ昔の沼の岸ですから、何か哺乳ほにゅう類の足痕のあることもいかにもありさうな ことだけれども、教室でだって手獣しゅじゅうの足痕の図まで黒板に書いたのだし、どうせそれが頭にあるから壺穴までそんな工合ぐあひに見えたんだと思ひながら、 あんまり気乗りもせずにそっちへ行って見ました。ところが私はぎくりとしてつっ立ってしまひました。みんなも顔色を変へて叫んだのです。 白い火山灰層のひとところが、平らに水で剥はがされて、浅い幅の広い谷のやうになってゐましたが、その底に二つづつ蹄ひづめの痕のある大さ五寸ばかりの足あと が、幾つか続いたりぐるっとまはったり、大きいのや小さいのや、実にめちゃくちゃについてゐるではありませんか。その中には薄く酸化鉄が沈澱ちんでんしてあたり の岩から実にはっきりしてゐました。たしかに足痕が泥につくや否や、火山灰がやって来てそれをそのまゝ保存したのです。私ははじめは粘土でその型をとらうと 思ひました。一人がその青い粘土も持って来たのでしたが、蹄の痕があんまり深過ぎるので、どうもうまく行きませんでした。私は「あした石膏せきかうを用意して 来よう」とも云ひました。けれどもそれよりいちばんいゝことはやっぱりその足あとを切り取って、そのまゝ学校へ持って行って標本にすることでした。どうせ又水 が出れば火山灰の層が剥げて、新らしい足あとの出るのはたしかでしたし、今のは構はないで置いてもすぐ壊れることが明らかでしたから。 次の朝早く私は実習を掲示する黒板に斯かう書いて置きました。 八月八日 農場実習 午前八時半より正午まで 除草、追肥 第一、七組 蕪菁かぶら播種はしゅ 第三、四組 甘藍かんらん中耕 第五、六組 養蚕実習 第二組 (午后イギリス海岸に於おいて第三紀偶蹄ぐうてい類の足跡そくせき標本を採収すべきにより希望者は参加すべし。) そこで正直を申しますと、この小さな「イギリス海岸」の原稿は八月六日あの足あとを見つける前の日の晩宿直室で半分書いたのです。私はあの救助係の大きな石を 鉄梃かなてこで動かすあたりから、あとは勝手に私の空想を書いて行かうと思ってゐたのです。ところが次の日救助係がまるでちがった人になってしまひ、泥岩の中 からは空想よりももっと変なあしあとなどが出て来たのです。その半分書いた分だけを実習がすんでから教室でみんなに読みました。 それを読んでしまふかしまはないうち、私たちは一ぺんに飛び出してイギリス海岸へ出かけたのです。 丁度この日は校長も出張から帰って来て、学校に出てゐました。黒板を見てわらってゐました、それから繭を売るのが済んだら自分も行かうと云ふのでした。私たち は新らしい鋼鉄の三本鍬さんぼんぐは一本と、ものさしや新聞紙などを持って出て行きました。海岸の入口に来て見ますと水はひどく濁ってゐましたし、雨も少し降り さうでした。雲が大へんけはしかったのです。救助係に私は今日は少しのお礼をしようと思ってその支度もして来たのでしたがその人はいつもの処に見えませんでした。 私たちはまっすぐにそのイギリス海岸を昨日の処に行きました。それからていねいにあのあやしい化石を掘りはじめました。気がついて見ると、みんなは大抵ポケット に除草鎌ぢょさうがまを持って来てゐるのでした。岩が大へん柔らかでしたから大丈夫それで削れる見当がついてゐたのでした。もうあちこちで掘り出されました。 私はせはしくそれをとめて、二つの足あとの間隔をはかったり、スケッチをとったりしなければなりませんでした。足あとを二つつづけて取らうとしてゐる人もあり ましたし、も少しのところでこはした人もありました。 まだ上流の方にまた別のがあると、一人の生徒が云って走って来ました。私は暑いので、すっかりはだかになって泳ぐ時のやうなかたちをしてゐましたが、すぐその 白い岩を走って行って見ました。そのあしあとは、いままでのとはまるで形もちがひ、よほど小さかったのです、あるものは水の中にありました。水がもっと退ひいた らまだまだ沢山出るだらうと思はれました。その上流の方から、南のイギリス海岸のまん中で、みんなの一生けん命掘り取ってゐるのを見ますと、こんどはそこは英国 でなく、イタリヤのポムペイの火山灰の中のやうに思はれるのでした。殊に四五人の女たちが、けばけばしい色の着物を着て、向ふを歩いてゐましたし、おまけに雲が だんだんうすくなって日がまっ白に照って来たからでした。 いつか校長も黄いろの実習服を着て来てゐました。そして足あとはもう四つまで完全にとられたのです。 私たちはそれを汀なぎさまで持って行って洗ひそれからそっと新聞紙に包みました。大きなのは三貫目もあったでせう。掘り取るのが済んであの荒い瀬の処から飛び 込んで行くものもありました。けれども私はその溺おぼれることを心配しませんでした。なぜなら生徒より前に、もう校長が飛び込んでゐてごくゆっくり泳いで行くの でしたから。 しばらくたって私たちはみんなでそれを持って学校へ帰りました。そしてさっきも申しましたやうにこれは昨日のことです。今日は実習の九日目です。朝から雨が 降ってゐますので外の仕事はできません。うちの中で図を引いたりして遊ばうと思ふのです。これから私たちにはまだ麦こなしの仕事が残ってゐます。天気が悪くて よく乾かないで困ります。麦こなしは芒のぎがえらえらからだに入って大へんつらい仕事です。百姓の仕事の中ではいちばんいやだとみんなが云ひます。 この辺ではこの仕事を夏の病気とさへ云ひます。けれども全くそんな風に考へてはすみません。私たちはどうにかしてできるだけ面白くそれをやらうと思ふのです。 (一九二三、八、九、)
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宮澤賢治が化石を発掘した地層が露出したイギリス海岸 |