#000000 沖縄の文化財(史蹟)
沖縄の文化財(史蹟)
守 礼 門 「守礼門1」 「守礼門2」
 守礼門は世界遺産「首里城」の入口の門でまず記念写真を撮る所です。今から37年前の沖縄海洋博覧会(EXPO'75)の見学ツアーで沖縄を初めて訪れ時(初めて飛行機に乗った)に守礼門を見ました。 当時は現在のような首里城は無く、至る所に散乱した石垣があるのみでした。首里城再建を樹に色が塗り直されました。戦後沖縄はアメリカの統治下に置かれ1972年に日本に復帰し、海洋博はその記念行事として開催されましたが、 本土から遠いせいか見学者の数は期待外れでした。


守礼門を背に (1975年)  EXPO'75沖縄海洋博ツアーで


守礼門の前で 1(2009年):沖縄復帰時に改修(朱塗り)


守礼門の前で 2(2009年)


守礼門の前で 3(2009年)


守礼門の前で誰もが記念写真を







  守礼門デザインの切手1(1964年)
東京オリンピック沖縄聖火リレー記念


守礼門デザインの切手2(1972年)
沖縄が日本に復帰した記念

円 覚 寺 跡 「円覚寺跡1」 「円覚寺跡2」



↑円覚寺跡入口から総門を見る

↑円覚寺跡から首里城を望む


↑円覚寺跡 総門 放生池石橋を望む


↑円覚寺跡 説明分と伽藍覇配置図


↑円覚寺 総門右端から首里城を望む


↑円覚寺総門 (復旧落慶記念切手)


↑円覚寺 放生池石橋 (文化財保護強調週間)

弁 財 天 堂 「弁財天堂 」






↑天女橋の上で、向こうは弁財天堂





↑弁財天堂天女橋の上で


首里の弁財天堂と天女橋 1975年沖縄海洋博で沖縄訪問時にスケッチ










首里金城町石畳道 (しゅり かなぐしく いしだだみ)
「首里金城町石畳道」 「金城町の石畳」  

 
 首里金城町石畳道は16世紀に作られた首里城から南部に通じる主要道路で戦火をまぬがれて残った約300mの石畳である。首里城見学した後に石畳の古道を下りながら歩いた。 琉球石灰岩で作られた平らな敷石と石垣が続く景観は素晴らいものであった。日本の道百選の一つである。











↑金城町石畳道 案内板



↑金城町石畳道 その1


↑金城町石畳道 その2


↑金城町石畳道 その3:「ちゅらさん」の撮影地


↑金城町石畳道 その4 : 金城村屋 (あなぐしくむらやー)


↑金城町石畳道 その5:ガジュマルを写す


↑金城大樋川(かなぐしく うふふぃーじゃー)



↑金城大樋川の説明板


中 村 家 2011年7月: 国指定重要文化財 「中村家」
 世界文化遺産「中城城」の近くにある沖縄の住居建築を昔のまますべて残している「中村家住宅」を訪れた。現存する建物は18世紀頃に建てられたもので、 中村家の祖先は約500前に中城城主「護佐丸」が中城に城を移した時に忠臣として一緒に移ってきたもので、その後の地頭としての地位で得た上層農家の屋敷構えが見られる。
















中村家住宅見取り図



中村家住宅門前で









↑サーダーグルマ(砂糖キビ用)









屋根上にある守り神シーサー



アサギ (離れ)


アサギの廊下前のシーサー



母屋・一番座(客間)


母屋・二番座(仏壇)


母屋・三番座(神棚)


仏 壇



台所のかまど









高 倉









裏側屋根、豚小屋を望む


フール (豚小屋)



馬 小 屋









井戸、家畜小屋兼納屋を望む

銘 刈 家 2014年4月: 国指定重要文化財 「銘刈家」



































屋部の久護家 2013年12月: 沖縄県有形文化財 「屋部の久護家」





























琉 球 村 2011年9月 「琉球村」  
 恩納村にある琉球村を訪れた。沖縄の文化施設や芸能のほとんどを見る事がきる。各地の古民家などの家屋を移築しており、その中に学習、体験コーナーがあり、三線の体験講習を受けた。 これが三線を始めるきっかけになった(寿美枝)。また昔ながらの製糖風景(水牛を使ってサトウキビの汁を絞るサーター車を回転)の実演が見れて興味深かった。
 旧島袋家は国の有形文化財に指定されている。


琉球村の正面入口の前で















旧仲宗根家 (読谷村座喜味から移築)


旧中曽根家の前で









旧比嘉家 (南城市玉城百名から移築)







旧島袋家 (名護市羽地から移築)

















沖縄踊りの稽古を見学
旧西石垣家 (石垣島石垣市から移築)










旧花城家 (久米島仲里村から移築)










旧玉那覇家 (恩納村塩屋から移築)













旧平田家 (フール)














フール(昔のトイレ兼豚小屋)

旧大城家 (三線教室)





三線講習を受ける




サーターヤ (水牛)





サーター車を回す水牛の前で




浦添ようどれ 「浦添ようどれ1」 「浦添ようどれ2」

浦添ようどれ


浦添ようどれの説明標識  






  


前庭 暗しん御門から二番庭へ








 二番庭 中御門に入ると一番庭がある 












一番庭 東室(尚寧王陵)と中御門


一番庭 西室(英祖王陵)の前で







浦添グスク跡



  



  



  



  



  



  

浦添グスク・ようどれ館



  



  



  


西室(英祖王陵)の石厨子:展示館の遺物  



  

久志の観音堂(くしのかんのんどう):名護市民俗文化財  「久志の観音堂」































オランダ墓:名護市史跡  「オランダ墓」





オランダ墓、運天港入港のフランス人の墓碑














オランダ墓より羽地内海を望む
 









瀬底土帝君(せそこてぃーてんく):国重要文化財  「瀬底土帝君」















 





垣花樋川(かきのはなひーじゃー):全国名水百選  「垣花樋川」





































仲村梁樋川(なかんだかりひーじゃー):国重要文化財  「仲村梁樋川」






































許田の手水 (きょだのてすい)  「許田の手水」
名護市許田は沖縄高速道路の北の終点である許田インタチェンジがある。 入り江に港があり琉球王国時代には、北の帰港地として栄えた。集落には「許田の手水」「後の御獄」の文化財がある。

















塩 川 (しらかわ) 「塩川1」 「塩川2」












名護のひんぷんガジュマル
名護のひんぷんガジュマル  ひんぷんガジュマル    
 名護市の旧市街の名護十字路と名護博物館の中間地の旧道の真ん中に高さ19m、推定樹齢300年の大木が「ひんぷんガジュマル」がある。 「ひんぷん」とは屋敷の正門と家屋の間に設けられた屏風風の塀で外からの目隠しや悪霊を防ぐものと言われ、 その容姿は名護の街のひんぷんとしての役割を担っており、ひんぷんガジュマルは1997年に国の天然記念物に指定されている。 乾隆15年(1750年)具志頭親方蔡温は、当時の運河開通論と王府の名護移遷論議を鎮圧するため、「三府龍脈碑」を建てた。その碑が幸地川から発見され 名護博物館に所蔵されており、県の有形文化財にしていされている。

↑ひんぷんガジュマル (西側:幸地川下流側から見た) 右は「あなだばし」

↑ガジュマル (南側:名護博物館側から)

↑ガジュマル (北側:名護十字路側から)

↑ 三府龍脈碑 (レプリカ)の前で

↑昔のガジュマル(1924年:坂口氏撮影)

  ↑ガジュマル (東側:幸地川上流から)

↑ひんぷんガジュマル (下幹部)

↑ 三府龍脈碑 (名護博物館所蔵)

↑昔のガジュマル(1949年撮影)

宮里前の御嶽のハスノハギリ林  宮里前の御嶽のハスノハギリ林

   











古我地焼 (こがちやき) 「古我地焼窯跡1」 「古我地焼窯跡2」

古我地焼窯跡


古我地焼窯元跡へ







古我地焼工房





古我地焼工房と作品 (テレビ放映より)

古我地焼ギャラリー





古我地焼工房前の隼人







購入した古我地焼小皿と茶わん小品








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