石川県の街歩き
飼い主の故郷・美川 白山市美川
 美川は生まれてから大坂堺市に出るまで住んだ町であり、霊峰白山を源とする手取川が日本海に注ぐ町で江戸時代は本吉と呼ばれ、 北前船の帰港地で、以後港町として繁栄していたらしい。おかえり祭り]は天下の奇祭として有名であり、町内を巡る台車(だいぐるま) は日本でも数少ない3輪です。



美川駅の観光案内板

上空から見た美川の町と手取川


NHKテレビ「小さな旅」より

美川町鳥瞰図


石川文化会館より

美川の町の地図 (石川文化会館より)


美川のパンフレットの歴史案内マップ

手取川河口(明治時代)


   美川河口の帆船

手取川河口(旧美川大橋がある時代)


美川の手取川の手漕ぎ船と旧美川大橋


美川旧大橋と鉄橋


手取川と安産川の船で遊ぶ子供


美川旧大橋、M・Aさん作の文集の絵




美川漁港(手取川河口)







漁港に入る漁船(石川文化会館より)   


美川漁港 (NHKテレビ「小さな旅」より)


採れた魚を水揚中の漁船


漁港と北陸高速道路


魚を天日干し風景(石川文化会館より)

美川鉄橋


美川鉄橋を走る貨物列車


永代町の近所の子供と (美川鉄橋前河原で) 1956年頃

手取川河口での魚採り


手取川河口でスベり採り (石川ルーツ交流館より)


美川河口でのスベり採り(石川文化会館より)


美川鉄橋下でのスベり採り


  手取川河口でカワギス釣り


手取川での「イササ採り」


手取川堤防突端での魚釣り

手取川に遡上した鮭


遡上した鮭を捕獲する籠の前で


捕獲した鮭

美川の海








美川の海1(1975年画)


美川の海2 (1975年画)

遊んだ安産川とフグ漬け加工場


安産川とフグ漬け加工場 (石川ルーツ交流館より)


ハリンコが泳ぐ安産川


安産川とフグ漬け加工場 (小学校方向) 1972年画


フグ漬け (漬ける前) : NHKテレビ「小さな旅」より


フグ漬け (漬けた後) : NHKテレビ「小さな旅」より

遊んだ安産川近くの坂道 


昔住んだ家から安産川、海岸へと続く坂道


安産川にかかる橋からの住んだ家への坂道


空き地は昔住んだ家があった所 
白山の見える風景 


美川沖上空から見た白山と美川の街 : NHKテレビ「小さな旅」より 


手取川河口に流れこむ川 (チブタ川)と白山連峰

美川小学校校舎


美川小学校現校舎(今は二宮尊徳銅像は無い)

美川小学校の二宮尊徳像 新校舎では無くなった。


美川小学校旧校舎正面:昭和初期頃


美川小学校旧校舎全景(手前が奨健館):昭和10頃年

美川の街 


北陸線美川踏切と市街


石川ルーツ交流館 


美川文化会館 


美川文化会館の文化祭展示場


本町通り (正面は実家)


大正通り


フグぬか漬けの店 任孫 


北潟酒店 


勝見仏壇店


豪華な美川仏壇


永井家 北前船主邸宅





濱上家 伝統的家屋





神幸町の昔の家の前の道 


美川中学校への道 (1971年画) 


美川名所「小女郎松」 Y・Y君作の文集の絵 


徳證寺 


浄願寺 

美川の実家 


実家の家の前で 


美川の実家をスケッチ 1972年


実家の床の間の前で 


床の間の五月人形

美川おかえり祭り ・おかえり祭り ・おかえり祭り(松田亜世)  


おかえり祭り:絵はがきより



> ↑美川おかえり祭り おかえり通りを高浜のお旅所(仮宮)に向って巡行

美川おかえり祭り絵巻より(S62年2月美川町発行 中西 勲 画)


↑巡行1:藤塚神社を立つ今町と北町の台車

↑巡行2:東新町、南町、西新町の台車

↑巡行3:永代町、中町、船職組の台車

↑巡行4:浜町、神幸町、和波町の台車

↑巡行5:家方組、末広町の台車、獅子舞

↑巡行6:ラッパ手、青年団長、騎手、神輿

↑巡行7:右大臣、左大臣、猿子、巫女舞、宮司、神社役員



  藤塚神社(おかえり祭の台車の起点地)


  藤塚神社のお旅所(仮宮)の狛犬

藤塚神社を出発する13台の台車と神輿 2016年


↑今町の台車

↑船職組の台車

↑東新町の台車

↑神幸町の台車

↑南町の台車

↑永代町の台車

↑末広町の台車   

↑家方組の台車

↑和波町の台車

↑中町の台車

↑北町の台車

↑浜町の台車

↑西新町の台車

↑御神輿

台車、御輿の巡行


高浜のお旅所を出発前の家方組の台車の前で


高浜のお旅所を出発前の船職組の台車


美川駅前広場で先端を持上げて巡行する末広町の台車





中央に人形を搭載した三輪の台車 (傘屋根)の西新町の台車の巡行


美川駅前広場で先端を持上げて巡行する末広町の台車


旧美川駅前を練り歩く神輿


美川駅前広場の神輿、上記旧美川駅前の神輿と同アングル


美川大橋近くを練り歩く神輿


永代町西の台車 4人の小学生が太鼓を打つ (以前は女人禁制だった)


濱町の台車に搭載の人形「楊貴妃」



お旅所 (仮宮) の左右に整列する台車


↑お旅所 (仮宮) の台車 (左から北町、南町、浜町)


藤塚神社のお旅所(仮宮)の台車



↑楊貴妃の人形を:浜町台車

↑舞姫の人形:家方組台車

↑桜樹を搭載:今町台車 (先頭)

↑神鏡を搭載:末広町台車(末尾)


↑手力雄尊の人形:北町台車

↑蘭陵王の人形:南町台車

↑猿田彦明神の人形:神幸町台車

↑背面の蒔絵 (美川仏壇の漆と金箔使用)

↑背面の蒔絵 (上の写真の右部拡大)   

↑北町台車 (祭り前日)




↑永代町台車 (お旅所)  

↑中町台車 (祭り前日)

↑永代町台車 (祭り前日)

↑船方組台車 (祭り前日)
  
↑お旅所 で一夜を明かすお神輿

↑実家の前で (おかえり筋の時)

↑今町台車の巡行(さくらと鳥居)

↑永代町台車 (あかにんに) の絵

↑お帰り筋を練り歩くお神輿

↑実家の前のお神輿(和波町お帰り筋)

↑旧美川駅前を練り歩く神輿

↑お神輿をかつぐ若者 (島田岩次郎氏撮影)




↑実家の前で (和波町おかえり筋の時に)


 生誕地である美川町 (現白山市美川) では毎年五月の第三土曜、日曜日に二百年の伝統がある「おかえり祭り」が二日間にわたり開催され、天下の奇祭として有名です。
 一日目の早朝、南町の藤塚神社 (本宮) から出発した13台の台車 (だいぐるま) と神輿が全町内を巡行し、夜に高浜のお旅所(仮宮)に入り、台車はそれぞれの町の台車小屋の前に 整列して末尾の神輿を迎えます。神輿が仮宮の前の鳥居を時間をかけてくぐる時のしぐさはクライマックスです。
 二日目はお旅所で仮宮に向けて整列した台車や仮宮の神輿を見るができ、夕方に一日目と同じ順序でお旅所(神社)を台車と神輿が出発(お立ちと言う)して、その年のおかえり筋を 巡行し、翌日の明け方、本宮に戻ります。
 美川には町筋が10町 (南から南町、中町、北町、新町、永代町、今町、神幸町、浜町、末広町、和波町) あり、毎年
おかえり筋が毎年順次変わります。則ち10年に一度、 その町がおかえり筋となり、そのために家を改修したりして準備します。
 お帰り筋での家では美川町を出た家族や親戚や知り合いを招いてもてなすのが習わしで、その家に帰ると言う事から「おかえり祭り」言われています。 また知らない人でも家に入れてごちそうしたり、おかえり筋の祭宴が夜を徹して続くなどが
天下の奇祭と言われる由縁です。
 13台の台車(だいぐるま)は日本でも数少ない3輪車で、頭の一輪を持ち上げて回転、方向転換が自在にでき、お帰り筋の家の玄関に台車の頭を向ける事が容易です。 台車がお帰り筋のが家の前に頭を向けると、台車の曵き手が家に入り込み、酒や祭りのごちそうがふるまわれます。
 台車のほとんどに大きな昔の偉人の人形が搭載されていいますが、人形が搭載されていない台車は三台あります。先頭に曵かれる「桜」を搭載した今町の台車と 最後尾に曵かれる「鏡」を搭載した末広町の台車と「太鼓」を搭載した永代町の台車です。
 小学生の頃、永代町に住んでいて、小学6年の時に台車に乗り太鼓をたたいた事があります。縦に置かれた大きな太鼓、4人の小学生が対角線に座って、はやし声をあげ ながら太鼓を叩きます。その子供達を「あかにんに」と呼び、そのかけ声は「エイヤサッサ ウッタリデイコ、、、」から始ります。
 台車には子供達が座れる桟敷きがあり、その中央前述の人形や太鼓を搭載しています。その座敷きに前の一輪を支える車輪保持部に続く階段から登る事ができます。 この二つの保持部を持って、台車を持ち上げたり、回転したりできます。またこの保持部に多くの人が台車を引っぱれる長い綱が連結されています。 昔は台車は女人禁制で、曵き手や乗る子供は男子のみでしたが、今は女子でも良いようです。
 台車の屋根は2種類あり、4本柱に支えられた神社のような屋根 (本土の山車はこれ) と大きな傘を搭載 屋根 (これは美川しかない) です。 また台車や神輿の壁面には美川仏壇で使われている漆や金箔がふんだんに使われていて、大変豪華絢爛です。

天下の奇祭「おかえり祭り」より (北国新聞記事 1982年)








河口の町「美川」 
北国新聞 連載記事(昭和後期) より :小学校同窓生 Nさんより入手
































































犀星俳文学賞受賞 河港の町「美川」
美川小学校同窓生 Nさん
北国新聞記事より




金  沢
金沢城: 国重要文化財 (石川門、三十三間長屋)
「金沢城:菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓」 「石川門と石川櫓」 「河北門」 「金沢城」
菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓は延べ床面積1894.23平方mの復元建物で、石川門や三十間長屋と同様、鉛瓦や海鼠塀が外観。明治以降に建てられた木造城郭建築物 としては全国再最大規模で、3年4ヶ月をかけて造られ平成13年7月に完成した。3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいる。河北門は金沢城 の実質的な正門で2年半の歳月をかけて平成22年4月に再建され130年ぶりに蘇った。





大手門に向って大手掘り前を歩く


大手掘 (大手門)の石垣


大手掘のサギ


大手掘 (大手門)の石垣

大手門(尾坂門)から入る
















河北門と五十間長屋・菱櫓を望む





河北門と橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓を背に







河北門一の門を通る



















河北門二の門を通る
















橋爪門続櫓・五十間長屋・菱櫓を望む



















三十三間長屋を望む




金沢城本丸跡へ




石川門二の門に向かう




石川門二の門を通る










石川門二の門の石垣の前で





石川櫓と石川門の前で (1975年)

石川門一の門を背に








石川門一の門と石川櫓


金沢大学卒業式の後、金沢城石川門前で (1967年)

石川橋から石川門を望む





石川橋の上で

石川門への石川橋の上で (1967年)

石川門を望む (1965)年頃











お堀通り(元百間掘)を人力車に乗って










金沢城と兼六園配置図




兼六園:国特別名勝 日本三名園  兼六園


























    


1973年頃のスケッチ

紅葉の兼六園を歩く 2018年12月2日


金沢兼六園 霞が池のことじ灯籠を背に


金沢兼六園 霞が池に映る紅葉と逆さ雪吊り

金沢城と兼六園配置図




尾山神社 神門:国重要文化財 「尾山神社」 「尾山神社境内マップ」
尾山神社は1873年(明治6年)藩祖前田利家を祀る神社として創建された。創建から2年後に建てられたこの神門は 三階建で、最上階のステンドグラスはランプで光らせることができかつて灯台として使われていた。


尾山神社の鳥居と神門


尾山神社の神門


神門から拝殿を望む



神門入口の扉と階段


神門入口の扉と階段



神門から拝殿を望む


狛犬と神門



夏越しの神事 (おおはらえ)を行う氏子



境内から拝殿を望む







拝殿全景


拝殿を望む



前田利家の騎馬像


前田利家の騎馬像


騎馬像の母衣(ほろ)の説明<



利家の正室お松の方の座像


お松の方の座像の説明板











金沢 四高跡 国重要文化財 金沢四高跡
四高記念文化国流館 (石川近代文化館)


石川近代文化館パンフレットより









四高記念文化国流館全景





四高記念文化国流館の看板





四高記念碑




第四高等学(現金沢大学)物理化学教室 (登録有形文化財) 明治23年建設


第四高等学校 物理化学教室に同窓生と:明治村に移設

石川県庁跡 しいのき迎賓館 しいのき迎賓館


しいのき迎賓館前の堂形のシイノキ


大正時代に建て替えられた石川県庁と堂形のシイノキ


現在のしいのき迎賓館と堂形のシイノキ


樹齢300年の堂形のシイノキ(国の天然記念物)




「ひがし廓」金沢 金沢ひがし廓「志摩」
ひがし廓は、文政三年(1820年)に加賀藩がこの近辺に点在していたお茶屋をここに集めて町割りしたものである。 格子戸と大戸、それにニ階の造りが高い町並みは藩政時代の面影を今に残し、金沢でも情緒ある町並みと云われる。 金沢は実家に近く何度も来ているが、今回初めてこの地を訪れた。見学した ひがし廓は金沢市指定文化財に指定されている



雨のひがし廓 (茶屋街)メイン通り


ひがし廓 (茶屋街)で1  2002年9月8日


ひがし廓 (茶屋街)で2  2002年9月8日


ひがし廓 (茶屋街)で金沢大学同窓生と  2008年4月13日



お茶屋「志摩」見学1


お茶屋「志摩」見学2



↑お茶屋「志摩」を見学 金沢大学同窓生と 2008年4月13日


お茶屋「志摩」


お茶屋「志摩」で


お茶屋「志摩」床の間



お茶屋と浅野川沿いの桜並木

金沢の街 (ユネスコ創造都市) 「金沢市」 「石川県立歴史博物館」

金 沢 駅


夜のライトに映える金沢駅前の鼓門


金沢駅東広場の鼓門の模型





金沢駅東広場のクリスマスデコレーションの前で


金沢駅前のヤカンのオブジェの乗って

東本願寺金沢別院










横安江町通りを歩く


魚の張り子のある古い家の前で




近江町市場





近江町市場の海鮮丼屋がある通り


開店前の近江町市場の魚店







尾崎神社








尾崎神社拝殿

石川県立歴史博物館


石川県立歴史博物館


石川県立歴史博物館の前で


石川県立歴史博物館(元金沢美大)の入場券


           県立歴史博物館前の通りで      

主計町茶屋街から見た浅野川


主計町茶屋街の桜並木と浅野川





浅野川大橋を望む

辰己用水遊歩道


金沢城の水源辰己用水





辰己用水遊歩道

犀川の大桑(おんま)層


犀川にかかる「おんまかいがらばし」


犀川の濁流に削られた化石層

夕日寺・田上  石川県金沢市  
 1993年から数年金沢市田上に家族が住んでいた時に、卯辰山を越えた夕日寺町の夕日寺健民自然園にある「化石の広場」を何回か訪れた。 ここが化石採集を始めたきっかけとなった場所で 大桑(おんま)層 の地層が露出している。








夕日寺健民自然園「化石の広場」:化石が採取できる







金沢犀川の地層と化石
 飼い主が化石採集を始めたのは、金沢の「夕日寺化石広場」で 初めて化石を採集した時からです。 石川県の金沢市から富山県にかけての140万年前から80万年前の海底に堆積した地層を大桑(おんま)層 と呼び、多くの貝化石を産出します。金沢市の犀川の露頭で貝類、ウニ、魚の耳石などが採集できます。





















犀川・大桑層全景

犀川化石密集層

露出したホクリクホタテ


とヨコヤマホタテ


貝類の化石


魚、ニウニ、サンゴの化石

ホクリクホタテ
 絶滅種で大きさは160mm




ヨコヤマホタテ




サイシュウキリガイダマシの密集




ムカシブンブク






犀川大桑層で採集した貝化石

加  賀
松 任(まっとう) 加賀千代女 松任城
 松任(今の白山市)は「朝顔や つるべ取れて もらい水」の句で有名な江戸時代の女流は俳人「加賀千代女」の出生地でああり、俳句館や 歌碑がある。また松任城址公園に中世の平城である松任城の痕跡がある。

松 任 城 跡








白山市立博物館










加賀の千代女 (千代女の里俳句館>







































松任駅前に展示されていたSL (D51822)




松井秀喜ミュージアム 松井秀喜ベースボールミュージアム
MLB ニューヨークヤンキース時代


松井秀喜の実家とミュージアム


松井秀喜ミュージアムの前で





松井秀喜ミュージアムでお父さんと

読売ジャイアンツ時代











小松城跡 石川県小松市  小松城
小松城は石川県小松市の丸の内町にあり、1576年に加賀一向一揆方の若林長門守により築かれたもので後に加賀藩金沢城の支城となった。 現在は天守台と内堀の石垣が残っており、城域は小松市役所、芦城公園、石川県立小松高等学校の立地となっている。

小松城本丸跡





小松城本丸見取り図(配置図)


小松城内堀


小松城内堀石垣


小松城天守台石垣への階段


小松城天守台石垣

芦城公園、珪化木










芦城公園、前田利常銅像







石川県立小松高等学正門




安宅の関 冨樫と弁慶像 (小松駅)




那 谷 寺 石川県小松市  那谷寺 1 那谷寺2
 高野山真言宗別格本山で養老元年(717年)開創、1300年の歴史が有る。南北朝時代に荒廃したが、加賀藩主前田利常が再建した。紅葉の名所で 松尾芭蕉の奥の細道に記載されている句碑「石山の 石より白し 秋の風」がある。  石川県の実家に近く何度か訪れているが、2015年11月に美川小学校の同窓会に出席するために片山津温泉に行った前日に訪れ、那谷寺内をくまなく歩き写真を写した。時期は過ぎていたが残っている紅葉と奇岩遊仙境の景観は素晴らしかった。また奇岩遊仙境の落ちそうな遊歩道を初めて歩き、頂上の洞窟にある仏像を見る事ができた。

那谷寺全景図


 


 

那谷寺入口


 


 


 


 


国名勝指定地への道  

奇岩遊仙境 (国名勝指定園)


 


 


奇岩遊仙境を背に  


 


 


 


 

大悲閣拝殿、本堂 (1597年建立)


 


 


 


 


 


 

三重塔 国指定文化財


 


 


 

松尾芭蕉の句碑


 


 

松尾芭蕉の句碑 「石山の 石より白し 秋の風」  


 

護摩堂 (1597年建立)


 


 

鐘楼 (1597年建立)


 


 

那谷寺ガイド表紙


    1990年  


  2015年  

安宅の関(あたかのせき) 安宅の関
「勧進帳」で有名な安宅の関は石川県小松市の日本海に面した安宅にある。実家の有る美川町と近く、親戚もあったので小さい頃から良く訪れていた。 隣接する根上町には森嘉朗元総理大臣や大リ−ガ−であった松井秀喜の生地と松井秀喜ミュージアムがある。

















篠原古戦場跡 石川県加賀市  斎藤 実盛
 美川小学校の同窓会が片山津温泉であり、その翌朝、芝山潟の周りを散策した時に、源平の古戦場跡を見つけ、その遺跡を見学した。 その篠原古戦場跡の地には「首洗池」と呼ばれる池があり、その池で源氏の木曾義仲が平家の斎藤実盛の首を洗ったという言い伝えがある。 松尾芭蕉がこの地で「むざんやな 兜の舌の きりぎりす」と詠んでいる。



篠原古戦場跡の入口




首洗いの池







松尾芭蕉の歌碑 「むざんやな 兜の舌の きりぎりす」




斎藤実盛の首を持つ木曾義仲の像







篠原の戦絵詞 :休憩場の上の絵詞を写す




























こおろぎ橋 石川県加賀市山中温泉 こおろぎ橋 鶴仙渓
  2003年8月に愛知県豊川市に住んでいた時に実家に帰った折に、石川県加賀市の山中温泉の大聖寺川にかかる「こおろぎ橋 」に寄った。「こおろぎ橋 」は 橋檜造りの木橋で、1978年に同名のドラマが樋口可南加子主演で放映された。
  2005年11月に美川小学校の同窓会に出席するために片山津温泉に行った帰りに再び「こおろぎ橋 」訪れた。この地の鶴仙渓は紅葉の名所だが「こおろぎ橋 」の 周りの紅葉はほとんど散っていた。
: 2003年













晩秋 : 2015年



















能  登
石川県千里浜ドライブウエイ




白米千枚田(しらよねせんまいだ) 「白米千枚田1」 「白米千枚田2」









能登・總持寺祖院(石川県輪島市)
總持寺祖院1 總持寺祖院2
能登の輪島市にあり総持寺は曹洞宗の本山として1321年に開創。明治31年(1898年)に焼失し本山が横浜市鶴見に移り、 総持寺は祖院となり再建された。総持寺は庭と建物が見事に調和している。
 



 



 



 




能登・妙成寺(石川県羽咋市) 妙成寺
能登の羽咋市にある妙成寺(みょうじょうじ)は曹日蓮宗の寺院。日蓮の孫にあたる日像が開祖で能登随一の伽藍を持つ。
 



 




 




能登・見附島(みつけじま:軍艦島) 「能登見附島」



能登・緑剛崎灯台 (ろっこうさきとうだい)
「緑剛崎灯台」
能登半島最北端の灯台でイギリス人設計士により作られたもので狼煙(のろし)灯台とも呼ばれる。真っ白な灯台からは佐渡島など日本海が見渡せる。



緑剛崎灯台を背に


緑剛崎灯台入口


緑剛崎灯台



緑剛崎灯台を背に大学の友人と:1966年

増穂浦海岸 (石川県志賀町)
増穂浦海岸
能登の志賀町の増穂浦海岸で冬の時期に海岸に打ち寄せられた桜貝を拾う。増穂浦海岸 は日本の小貝三名所の一つ。
 



 



 




能登の海のスケッチ 石川県
能登半島の内浦海岸をスケッチした。(1970年頃)











能登半島の化石
 石川県の能登半島には中新世中期(約1400万年前)の石灰質砂岩層があり、貝類、腕足類、ウニ類やサメの歯、哺乳類など 多種の化石を産出します。

↑能都町門島の石灰質砂岩ブロック

↑能都町門島のサメの歯

↑穴水町前波の石灰質砂岩路頭露頭

↑前波のアオザメの歯(E氏採集)

化石採集風景(関野鼻)

採集したサメの歯の化石(関野鼻)

鉱物採集風景(羽咋市


ワニザメの歯の化石
(関野鼻:E氏採集)

化石採集風景(関野鼻)

採集したサメの歯の化石(関野鼻)

鉱物採集風景(羽咋市


ワニザメの歯の化石
(関野鼻:E氏採集)

 ホーム